物相手(例えば制作)と人間相手(例えばサービス)

職場でのミスを肴に、元同僚Mと食事。
自分が今の仕事に対し、目標が無い事を話す。

Mはサービス業一辺倒の仕事をしてきた。どこからどう見ても機械相手に仕事をしている人ではない。
人間との関わりを常とし、その中で自分自身を磨けるタイプだ。

自分はこの仕事に就くまでは物作りばかりしていた。
バイトでは販売や営業、接客も経験したが意識は物や制作側で、人との関わりそのものを求めて仕事をした事は無かった。

「俺だって人間相手は疲れるよ。精神的にかなり堪える」とMは言う。しかし、人間相手において彼が感じるストレスと、自分が感じるものは異質だ。
例えば、彼は“どうしたらスムースな関わりが持てるか”と悩むのであり、自分は“関わるって何だ”に困惑するのだ。


向き不向きの話をする。

他人との関わりが好きな人---人相手の仕事
自分との関わりが好きな人---物相手の仕事
が向いてるんじゃないか。と。

目標設定の基準についての話になり。

人相手の仕事には答えが無い。頂点なんて無いし、不定形だ。他人との中で拡張していく。
物相手の仕事には答えが有る。達成が目に見えるし段階が明確だ。自分の中で完結し得る。
それぞれスライドする部分はあるにせよ、意識の置き処が根本的に違う気がする。
云わば人相手の仕事は他人との中に目標があり、物相手の仕事は自分の中に目標がある。

自分は今まで、答えの無いものに魅力を感じていた。決まっている答えに辿り着く過程を楽しむなんて趣味じゃなかった。
だが、この仕事をしていて、答えの無い事に不安を感じているのに気付いた。
少々乱暴だが、『“文系”だと思っていたら、“理系”だったと知った』程のショックだった。

自分は徹底して手前勝手だから、他人の動向に興味が無い。
他人の喜びを自分のものとする回路が無いし、自分のした事で他人が喜んでも嬉しくない。せいぜい“喜んでもらえた自分”に価値を見出す程度だ。
勤務内では「喜んでもらえれば嬉しい」と口に出すが、それは仕事だ。脳から出た言葉であり、心から出た言葉ではない。
だから逆に、他人が辛くても、それはそれ。自分には無関係だと先ず思ってしまう。

しかし。
この仕事では、自分の関わった物が他人に影響を及ぼすのではない。
自分のする事そのものが他人に影響を及ぼす。人間 対 人間。“関係”を持ってナンボの仕事。
未だにそのシステムが体に染み付かない。根付かない。
機械なら、操作や制作物に目標を見出せるしその時その時に達成感があるんだが、相手が人間だと漠然とし過ぎていて区切りが見つからない。落ち着かないんだ。

向いてない向いてないと感じていたが、理由が判明した。
「人間相手の仕事ってそういうものじゃないよ」と言われたとしても、自分がそう考えてしまっている以上、今の理解度では如何ともし難い。
どうしたもんか。と思う今日この頃(どんな終わり方だ)。