散文

職場やネットで見聞きするに、入居者(や家族)から感謝されるのが嬉しくてこの仕事をしていると云う人が多い。それがあるから、続けていられるのだと。
うーん。感じたことは無いな。感謝されて当たり前だと思ってるからじゃ無い。感謝のありがた味を知らないからだ。

親に出来なかった事をさせてもらってる。と云う内容も然り。
他人にスライドして昇華する技は未だ得られない。後悔するばかり。

「その人の立場になって」「自分だったらどうかと考えて」
苦手な科目だ。
前者は想像すら付かないし、後者は思い付く前に忘れてしまう。


理論より感覚を頼りにする自分。
想像力が乏しいから自分が直接感じたことでしか物事を把握できない。
応用の仕方がズレてるからそれ↑すらも適切な使い方ができない。
推測等のベクトルが見当違いな方を向いているんだ。
だから、その場その場で感知するしかない。

今後、親の介護をする事も無く、育児をする事も無い自分には、実感を根拠に入居者との関わる事が出来ない。
自分には守るべき家庭は無い。心を砕くべき家族も居ない。気を向けるのは同居の小動物くらいだ。
環境としては不利だけれど、他の人よりは余分があるということだろう。


まぁ昔のような勘は取り戻せないとしても、残骸を磨けばまだ多少は使えるんじゃないか。と前向きになってみる。
人付き合いを真剣にしてこなかった分、錆びた回路が多い。
仕事でもなければ人付き合いなんてしたくない。ならそれを使わない手は無いかな。
自分のアンテナを広げる為に仕事を続けるってのもアリかな。と思い始めた。

痴呆と云う、いわば特化した人たちとの、確実に期限付きの付き合い。
偏ってはいるけれど、リハビリにはもってこいかもしれない。