兄から得たもの

最近、自分の老後に付いて少し本気で考えるようになった。
今までは“親の死後は余生”だったから、先々なんて興味が無く、考える必要も感じなかったけど。
“老後”に意識が向くってことは、“生きていく”つもりが有るって事。
ちょっと上向きになってきたらしい。
職場の同僚曰く、「前向きだか何だか判ら無ぇな」と。

自分は体だけは健康で、実に無駄使いをしている。
健康が体から切り離せたら、どんなに良いかと思う。親に譲れたら、どんなに嬉しかったかと思う。

兄と会うと、意識が外に向く。意欲らしき物が出てくる。
これは自分にとっては両刃だけれど、‘社会人’としては必要な事。

「俺にはお前の在り方についてトヤカク言う権利は無い。
が、お前が自分から何かしようとするのであれば、それは認める」
兄は、ヘタレになっていく自分を非難することも強制することも無く、変わらぬ態度で接してくれる。
何を言っても聞かないって事を分かってるし、上から圧力をかければ意地になって拒否をするのを知っているからか。

自分は、兄の言葉や存在そのものをエサとしている。
その事を許してくれている事がとても有り難い。

「仕事に意欲を持ったり、趣味を見つけたりすることに、俺は大賛成だ」
4月が来る。
今の仕事を続けていこうか。チャランゴの教室とか、行ってみようか。
それに続く言葉が
“どうしようかな”から“そうしようかな”に変わってきている。
戻るのではなく、前へ。

振り返ることは有ると思う。でも、後戻りしたってまた同じ所に来るのなら此処に留まっていても同じこと。
先に進めるかどうかはまだ分からない。怖いし面倒くさいし楽しくないから。

〔中途半端な気持ちで仕事を続けるのは、同じ職場の人にも入居者にも失礼極まりない。
「続ける」なら、もう二度と「辞めようか」と言わないだけの覚悟を持ちたい。〕
自分には持てないかもしれないと思っているくせに、そう思うことで逃げを打っていた。
それなら。
先に決めてしまえばいい。
背水の陣を引けばいい。
“先の事なんて無い”と達観を気取っているのなら、それでも構わないはずだ。

たとえ4月に異動になっても、すぐに退職できるわけじゃない。
夏のボーナスまでは。秋の集団レベルダウンが落ち着いてから。冬のボーナスまでは。このケアカンファが済んでから。・・・・
言い訳を作ろうとすればいくらでも作れる。
言い訳を作りながら続けているなら、これからもずっと続ければ良い。
職場から解雇を言い渡されるまでは、やってみたらいい。
そしてやるのなら。
本意地になってやるべきだ。

自分の職場は、人間を扱う所。
それが苦手だろうが、嫌いだろうが、仕事中に何を思い出そうが、どんな思いをしようが、
そんな事は入居者には関係が無い。
此処に居たくて居る人なんて居ない。彼らは居場所を選べない。介助者を選べない。
自分は崇高な志なんて持てない。でも、「私で すみません」と思わないことは、出来るはずだ。