なんとなく七夕

例によって例のごとく撮影に行く。
今年はカレーを作るらしい。
材料を切ったりなんだりは、前日までにしてあって、入居者が参加している場面の写真は殆ど撮れなかった。
午前中一杯かけて煮込み、地域からのお裾分けだという枝豆を茹でた。
カレーだけじゃ寂しいってんで、バナナが付いた。
フロア内唯一のカレー嫌いA氏は少々不満気味だったが、ホームの行事食である散らし寿司モドキのおじやがまぁまぁも出来だったとかで、ご機嫌斜めまでには至らなかった。

午後は短冊書き。
ユニットによっては事前に書いた所もあった。「調子の良い時」「書ける時」に書かないと、不穏の元になる。
いきなり色和紙を目の前に出され、それを七夕の短冊と認識し、願い事を書く。という高度な技がこなせる入居者は48人中に数えるほどしか居ない。
紙とペンは持てるが、文字が書けなくなっている入居者のなんと増えた事か。
名前だけなら書ける。カタカナならなんとかなる。見本を用意してあれば写せる。書きたい文字が正確に書けない。等々、レベルは様々。
我々が、突然毛筆と硯を、もしくは触ったことも無いキーボードを持ってこられて、さぁ書けやれ書けと言われるのに似ているのではないかと思う。
日常の中に文字を書くという機会が無いのだから、無理も無いよな。

竹飾りは、時間のある時にワーカーと入居者があれこれ作ったものだろうが、どう見てもワーカー作の割合が増えている。
新しいワーカーが増え、勤務制度が変わり、時間的余裕が無くなった事が一目瞭然だ。

大半の入居者の短冊は、ワーカーの代筆。
個人的には、ムリに短冊を揃えるより、折り紙でも紙繋ぎでも何でも良いから「本人の物」が欲しいなぁと思うんだが、それがどんなに困難かってことは判るつもりだ。

短冊を竹に付けるのも、ワーカーが代行してしまうユニットが殆ど。
入居者各位は昼寝やテレビ、徘徊に忙しい。

おやつ時に、七夕の歌を歌う。
テープを流すんだが、最初から声なんて聞こえない。何回も掛ける。ひたすら繰り替えす。
痴呆度の低い入居者から「しつこい」とクレームが出始める頃になると、やっと「つられて歌い出す」入居者が出てくるというバラつきの中、ホームから出たおやつは“金箔付きワインゼリー”それも香料バリバリ。
…。あのなぁ、どうしてワインなんだよ。年寄りなんだよ?せめて梅酒にしようよ。まぁ、文句言うならこっちで作りゃぁ良いんですけど。等、ワーカーと愚痴る。

なにやら今ひとつ盛り上がりに欠けるまま、行事終了。
自分はといえば、今の職場から5000円(がめついよな)で借りたデジカメセットで「短冊とワタシ」なんてのを撮り、撮ったそばからホームのプリンタで即時写真状に作成。「今撮った写真である」事が把握可能な入居者に配って歩いた。
「はいよ。カレーを食べる○○さん」「これだーれだ」なんて。
「もう出来ちゃったの」「早いネェ」
その言葉が、こんなに嬉しかった事は無かった。

聞けば、課長も異動だとか。おいおい変わってからまだ1年経ってないだろ。毎回の事だが、ここの人事は滅茶苦茶だ。
来年の七夕。自分はここに来るだろうか。来られるだろうか。
おそらく顔を知ったワーカーは大方居なくなっているだろう。「グループホーム」としての存続が危うい現状も鑑み、体制は激動しているはずだ。
もう来られないだろうな。ってのを漠然と感じる。寂しい。