“人間が嫌い”でも仕事は介護

とかく会話による意思疎通は難しい。

5/3の転倒事故の後、ワーカーY氏と話した折、「人間が嫌いだ」と言ったら、それじゃこの仕事は勤まらないと。
それと仕事は別だと思った。この仕事をしている以上、嫌な部分だってこなさなきゃならない。例えば排泄物が苦手。キライ。触るのイヤ。だとしたって、それ抜きには仕事は出来ない。
社会で生きていく以上、人間と関わらずに過ごすのは困難。“嫌い”だから関わらないって訳には行かない。

「やっぱり人間が好きじゃないとダメですよ。“意識を変える”って、そういうのも含むと思うんです」とY氏。
随分と根本から持ってくるなぁ。思わず「それは無理」と即答してしまったよ。
もうちょっと手近からにしないか?
「土が好きで土の上を歩きたいけど、アスファルト舗装の道しか無い場合、そこを歩くしか無いだろ」
と言ってはみたものの、この例えは通じなかったらしい。

確かに、好きなら関わり方も違ってくる。もっと親身になった、暖かい接し方が出来るだろう。心からの言葉も増えるだろう。“人間が嫌い”では無く、“人付き合いが苦手”と言えばまだマシだったのかもしれない。
人間は言葉を使うから嫌いなんだ。と説明しようとしたら、一日じゃ利かないだろうからな。

いい加減な気持ちでやるなら辞職すれば?と他のワーカーが連絡ノートに書いていた。自分に当てたものでは無いらしいが、その話も出た。
「どう思います?」とY氏。
(自分は)いい加減って意味がわからない。って事は、いい加減にやってるんだろうと思うと答えたら、Y氏は不満そうな顔をしていた。
かといって、“いい加減に仕事してる”という意識も無いんだがな。「自分は真剣にやっているよ」とは言えなかった。

諸事情あるとはいえ、入居者が此処(施設)に居なければならない事自体を不幸だと感じてしまっているのも問題なんだと思う。
“姥捨て山”であり、“避難所”であり、入居者曰く“吹き溜まり”である施設。
身寄りが無いから。独居が不安になってきたから。家族には迷惑かけなくないから。そういう理由で自ら望まざるを得ず入る人だって居る。
家族と一緒に暮らすのが何より一番。とは思わない。が、自分ひとりで、又は信頼の置ける人間と共に暮らせない。ってのは不幸と呼んで構わないと思う。

身体的・精神的理由は様々。だからこそ、深入りしたら辛いし、重すぎて手に余る。
入居者にとってのベストを模索し実現する為には、家族の説得や施設の改築が必須。
自分にはそこまでやる気力が無い。だから、どこかで線引きをしなければ切なくてやりきれない。…言い訳かな。

それなら此処に居る事を不幸だと感じさせないようにするのも仕事の内じゃないですか。
Y氏ならそう言うだろうな。
それには同意。不安や不満を減らすべく、心掛けてはいるつもりだ。効果の程はわからんが。


「好きな事を仕事にするのはイヤなんだよ」
私は好きな事を仕事にしてきたからな。と元演歌歌手Y氏
「強いからだよ」
「違いますよ。弱いから、せめて好きな事を仕事にして拠り所にしたかったんです」
好きだからこそ。辛い事があっても耐えられたのだとY氏は言う。

好きな事=仕事だと、理想が高くなってやりたい事が増加して、それに自分が届かない事を思い知っちゃうのがイヤなんだ。力を尽くさない事を突きつけられるのがイヤなんだよ。
ステップアップなんてまどろっこしい事する余裕が無くなってしまう。自分は行けるはずだと思ってしまう。

好きな事を仕事にするなら、今の自分は何を選ぶだろう。
以前は印刷だった。写真だった。そんな仕事に就いてもいた。学校相手の営業も兼ねていて、それが苦痛で親を盾にして辞めた。
バイトも多岐に渡った。
今、やりたい事。自ら枝を伸ばそうと思える事。リターンが意欲になる事。
何だろ。…本かな